1483432 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

目玉おやじはどこで世界…

目玉おやじはどこで世界を見るのか


eye




僕たちは世界を見る。

では、僕たちの体の「どこ」で世界は見られるのか? もちろんそれは、「目」じゃなくて「脳」ということになる。簡単に言うと、眼球で受けた光情報が視神経を通って大脳視覚野にたどり着き、そこではじめて映像となって知覚されるのである()。けれども僕たちはこのことをそのまま実感/内面化しているだろうか? していないとすれば、どのような仕組みを実感/内面化しているだろうか? それを考えるために、次のような問いを掲げてみよう。

目玉おやじはどこで世界を見るのか?

もちろん彼は(たったひとつだが)眼球を持っているので、その角膜を通して光を取り入れているのは間違いないだろう。それは本来なら頭部があるべき場所に位置しているものの、あくまでも眼球であり、その中に脳があるようには思えない。が、『鬼太郎&妖怪大図解』に載っている解剖図によれば、あの眼球内部には「人間の学者にはそのしくみがわからない、なぞだらけの脳」があるらしい(ほかには地獄テレビやコンピュータなども詰め込まれている)。とはいえこれは、十中八九、後付けされた設定に違いない。なんせ、鬼太郎の父が亡くなったとき、その遺体の眼球に本人の魂が宿ったのが目玉おやじなのだ。けれども解剖図を書くとなると、「脳がなければ世界を見ることはできない」という近代解剖学の知見と整合させるために、脳を入れざるを得なかったのだろう。だからそれは、『妖怪大図解』のための便宜的な設定に過ぎないと言い切ってしまおう。言い換えれば、「解剖」する前からそこに脳があったわけではない。解剖した瞬間に発生したのだ。

百歩譲ってそれがもともとの設定だったとしても、少なくとも、僕たちは目玉おやじの眼球内部に脳という別のモノが宿っていることを想定して彼を眺めてはいない。あくまで彼の「頭部」は眼球だからだ。それでも彼は明らかに世界を見ているし、それをもとに状況を判断している。客観的知見に照らせば説明がつかない事態だが、僕たちは彼の振る舞いに不自然さを感じることはない。このことは、僕たちの素朴な世界観において、「世界を見る」というシステムに「脳」が含まれる必要性がないことを示している。かといって、言うまでもなく、「目」そのもので見るというわけでもない。僕たちにとっても、「目」はカメラに過ぎないのだ。それが捉えた像を知覚するには、別の装置がなくてはならない。

その装置は、さしあたり「私」と呼ばれているだろう。その同一性の問題は措いといて、いずれにせよ瞬間瞬間に世界を感覚する主体としての素朴な「私」である。重要なのは、客観的事実としては「脳」が「私」を生んでいると考えて差しつかえないものの、僕たちの体感世界においては、「私」は「脳」なしに成立するという点だ。僕たちは自らの「脳」という物理的存在を内面化していないが、「私」という非物理的(と僕たちがみなす)存在については間違いなく内面化しているのだ。なぜかと言えば、たぶん前者は目に見えず、モノとして掴むことも出来ず、「感じる」こともできないからだろう。後者もまた不可視で把握不能だが、自己言及的に「感じる」ことができる(というより、そうでなければ僕たちは世界を知覚できないだろう)。おそらく頭部が切り開かれて「見えない領域」から「見える領域」へと露出した瞬間に(つまりは目玉おやじ同様、「解剖」された瞬間に)、脳というモノの存在がその持ち主の「私」において認知され、それによってある程度内面化される可能性はある。だがそのような状況下では、多くの場合、本人の生命自体が危機にみまわれてしまう。つまり、脳の内面化はそもそも原理的に難しい。

では、ある存在が「私」を持っているかどうかを僕たちはどのように判断しているのだろうか? その判断基準は、驚くほど単純だと思う。要するにその対象が何らかの制御された、指向性のある行動をパフォームしていれば、つまるところその背後に外界の状況を認識する装置の存在が示唆されていれば、それは「私」を持っていると見なされる。だからこそ、たとえばアニメのキャラクターや一定のパローマンスを見せるロボットに、僕たちは簡単に「私」を感じてしまうのだ。もちろん目玉おやじも例外ではない。

さらにいえば、「私」が僕たち人間において宿っていると想定される場所も関係しているだろう。僕の個人的な実感を言わせてもらうと、「私」とは濃度の按配を持つ不定形の雲のようなもので、脳というモノに局所的に宿るというよりも、「頭の中」という空洞空間に揺らめきながら浮かんでいる。どの感覚器をもっともアクティヴにしているかによって、「雲」の「濃度」が最も高くなる空間座標は変わってくるが、いずれにせよ「頭の中」である。もしこれが、ある程度人間に普遍的な実感なのだとすれば(どうかね)、目玉おやじというキャラクターが成立する理由の一端がそこにあるだろう。目玉おやじにおいては、頭部があるべき場所に眼球が位置している。だから、その内部(のどこか)に目玉おやじの「私」、さらに言えば鬼太郎の父親の「魂」が宿っていると想定するのは、僕たちにとってとても自然だということになる。

いずれにせよ、「目」というカメラと「私」という受像機が分化しているのは確かだ。そうである以上、両者を接続する機構が必要になるだろう。「目」と「脳」なら話は早い。それらは視神経で接続されている。どちらもモノなので、それを結ぶのが視神経という物理的なラインだというのは、観念的にすんなりと納得がいく。けれども「目」と「私」の場合、僕たちは前者を物理的なモノとして、後者を非物理的な事象として、別々の位相の存在として捉えている。だとすれば、「目」と「私」の通信は、いわばあの世とこの世の交信のようなものであり、したがって視神経という物理的なワイヤーによって媒介されることはないだろう。両者を繋ぎ、「霊界通信」を可能にするのは、何らかの超物理的な媒質ということになるだろうか。次元を超えて伝播する電波のような不可視の波をイメージするといいかもしれない。要するに、「霊界通信」はLANケーブルによってではなく、無線LANによって為されるだろう。

一般的に言って、無線LANの利点は、LANケーブルの素材的・長さ的限界に影響されずにネットワークにアクセスできるということだ。「目」と「私」との距離は「電波」が届く範囲において任意に設定することができるのである。もしもこのような「無線視神経」が僕たちの実感なのだとすれば、目玉おやじだけでなく、たとえば昔話『正直善兵衛』における「目」と「私」の交信のありようを僕たちがすんなりと受け入れるのも当然だ。主人公である善兵衛は、目玉を自由に取り外し、それが捉えた光情報を無線で「私」に伝えて受像することができるようなのだ。たとえば鳥が彼の目玉をくわえて飛んでいけば、彼の「私」は空から見下ろした風景を見る。たとえば彼の目玉を外向きにではなく内向きにはめ直せば、彼の「私」は自らの体内のようすを見る。ふつうに考えれば荒唐無稽だが、こういった視覚システムがかつて想像され、一般にはあまり知られていないとはいえ、昔話として何世代も伝えられてきたのである。

もちろん、「目」と「私」の位置関係という点において、目玉おやじと善兵衛は対極にある。前者においては「目」の内部に「私」が位置しているので、それらの間にはほぼ距離がないと言っていいが、後者においては「目」と「私」はそれぞれ遠く離れた空間座標に位置ししているのだから。けれども両者に共通しているのは、「目」と「私」との間の物理的距離がもはや字義通りの「距離」ではなくなっているという点だ。近かろうが遠かろうが通信は無線で瞬時に為される(というか、おそらくそれは「同時」になされる)。そもそも「霊界通信」は距離という概念を超えて展開されるものだ。目玉おやじが長い間違和感なく親しまれてきたこと、『正直善兵衛』が現代まで語り継がれてきたということは、人々がこのような通信システムに一定のリアリティ、自然さを感じてきたことを示している。その何よりも確かな証拠は、古来より人々が「魂」の存在を素朴に信じてきたという事実だ。「私」とはすなわち「頭の中」に閉じ込められた「魂」であり、だからこそ感覚器と「私」との通信は物理的距離が問題にならない(ゆえにケーブルも必要ない)「霊界通信」なのである。つまるところ、「父の遺体の眼球にその魂が宿ることで生まれた」という目玉おやじの生い立ちが、すべてを余すところなく語っている。

根本的に、僕たちは、知識によってしか確認できない事物を内面化するのが不得意なようである。そのような事物とはつまり、「隠された/見えない領域」にあり、なおかつ外部から触って確認することができないモノ(脳とか視神経とか)だ。かくして僕たちは、実際に手にとって確認できる事物、実感のある/内面化された存在たち(目とか私とか)だけを頼りに、世界観を構築する。そのとき僕たちは、「見えない領域」の「見えなさ」を、「想像力を許容する空間」として使うのである。これは本質的に、「体内」に留まるものではない。この世界のあらゆる「見えない領域」には、僕たちの勝手な空想が充填され続けている。

近代解剖学ではなく、いわば空想解剖学こそを、僕たちは生きる。




© Rakuten Group, Inc.